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ミワいつか
2006/05/12(Fri)
ドナウの真珠ブダペスト


朝ブダペストに到着。やっぱり降りるのは私が最後でまだ準備をしていると運転手さんが私のバックパックを持ってきてくれた。東駅のバスターミナルに到着したかと思いきや別のターミナルだった。運転手さんにメトロに乗るんだよ、教わる。乗り換え駅まで説明してくれてメトロへの階段の見えるところまで連れて行ってくれた。
チケットを買おうとカウンターでいくらか尋ねる。カウンターのおばさんは英語の問いかけにもハンガリー語で返してくるけど親切で目的の駅までの乗り換え方も紙に書いてくれた。ハンガリーの通貨フォリントを持っていなかったけどユーロで買えた。ホントは改札を通して刻印しなきゃいけないらしかったけどそのまま乗ってしまった。
目的の駅、Blaha Ljuiza。地下鉄から地上に出ると朝焼けが寝ぼけた目に眩しかった。サラエボからベオグラードのバスで一緒だった日本人カップルがくれたチラシの地図を頼りに日本人宿ヘレナハウスを目指す。
ヘレナハウスの扉を開けるとすぐの部屋におばさんが寝ていた。ヘレナさんらしい。そして少し異臭がする。ちょっと心配になるけど泊まれるか聞いてみるともちろん、と寝巻きのまま部屋に通してくれた。折りたたみのベットを広げて私用のベットをつくって“Good Sleep”と言ってまた戻っていった。
部屋には3人ほど寝ていた。男の人の寝顔が見えたので女部屋はないのか聞こうと思ったけどヘレナさんが起きてからでいいか、ととりあえずお風呂入る。お風呂も異臭がしたけど湯船があって、寝てる人を起こさないように少し気を使いながらもゆっくり入り3連の夜行バスの疲れをとる。情報ノートを見たりしてから仮眠をする。さすがにバスの中の睡眠だけでは疲れていた。
目が覚めるとドアの向こうで女の人たちの声が聞こえる。観光へ出かけてしまう前にいろいろお勧め聞いておこうと起きだす。一番気になるのはどの温泉がよいか、ということだったけど温泉はまだ行ってないらしかった。しばらく情報ノートを見ているうちにヘレナの娘がお昼ご飯を持ってきていた。私にはなかったけどどこかに3泊以上でお昼ご飯、みたいなことが書いてあった気がしたので欲しいなーと思いながら一口だけもらってヘレナハウスを後にする。
とりあえず何処へいくと言うわけでもなくドナウ川を目指してみる。途中川の手前の中央市場に寄ってみる。1階は肉屋やチーズ屋パン屋などが入っていた。肉屋では鳥の足(爪とかはえているホントに足の部分)を売っていたり、フォアグラの缶詰や生のフォアグラらしきものも売っていた。値段だけチェックしておく。市場はいろんなものが売っていてみているだけで楽しい。とてもきれいな市場だった。2階には食堂が入っていた。ハンガリーはパプリカ料理が有名らしい。それらしい赤い料理たちもみえたけど、人が群がっているパイのような巻物の食べ物のチーズ味を注文する。食べながらドナウ川に架かる橋を渡る。しょっぱいチーズを想像していたけどフルーツが入っているのかさっぱり甘いチーズだった。
橋の向こうには緑のゲッレールトの丘が見えた。丘からの眺めに期待して丘を登る。日差しが強かった。途中途中眺めに見とれながら汗かきながら丘を登る。高尾山を思い出す。丘の上にはビアガーデンがやっていたりするのかしら。帰ったら毎年恒例の高尾山のビアガーデンも行かなきゃ、と思いながら登る。丘の道の途中にはベンチがあってドナウ川とブダペストの街が眺められるようになっていた。カップル達が仲良く街を眺めている後ろを汗かきながら必死に登っていく。やっと着いた頂上に銅像が立っていた。人もたくさんいた。ベンチに座ってドナウと街を眺める。といつかちゃんから携帯にメールが入った。ポーランド到着のお知らせと明日ブダペストに戻ってくる時間が入っていた。ドナウ川から船でウィーン入りする船の時間がわかったらメールして、とのことだった。そうだった。船を調べるんだった。丘を一気に下る。登るのは必死だったけど降りるのは一瞬だ。
デアーク広場のインフォメーションを目指す。インフォメーションで船の時間を聞くと毎日朝9時出発と言う。いつかちゃんがブダペストに到着するのが9:22。ブダペスト延長かな。ネットのつながるCAFEがあるか聞いて教えてもらった店に行く。
いつかちゃんにメールをして朝9時だから次の日でいいか、と聞くとそれでいいとメールが来る。別々に行動していても携帯やメールがあるというのはホント便利だ。ウィーンでお世話になるクラウディアに到着時間をメールしておく。
王宮も行こうと思っていたけど明日もあるなら明日に残そう、と少しお茶をしながらゆっくりする。BOXというこのお店はスポーツバーでもあるらしく、他の席ではテニスのゲームを見ていた。船のチケットも買わなくちゃ、と8時ごろ店をあとにする。
ドナウ川沿いを散歩しながら帰ろうとドナウ川に出ると、空が夕焼け色に染まっていた。王宮や大聖堂のシルエットが夕日に映えていた。
船のチケットカウンターは閉まっていてチケットは変えなかった。そして市場でチェックしていたご飯たちを買おうと思っていたけど市場も閉まっていた。ヘレナハウスまで歩き近くのスーパーで何か買って帰ろうと思ったけど近くのスーパーも閉まっていた。しょうがないのでどこかレストランでも入ろうとブラハルイーザの駅付近を歩いていると別のスーパーを発見。閉店の時間までスーパー内をさまよって、インスタントラーメンとセロリと明日の朝食を買う。戻って具がパセリのみの少し切ないラーメンを作って食べる。一緒の部屋の女の子はもう1年7ヶ月も旅をしているらしい。すごいなぁ。

アウシュビッツ強制収容所/Auschwitz/Oswiecim


車掌さんが「もうすぐクラクフですよ。」と各部屋をまわって起こしてくれる。結局私も部屋に一人だけとなり、隣もその隣もほとんどの部屋が一人だった。ほぼ予定通り6時にKRAKOW GLOWNYという中央駅に到着。駅の構内にかばんのマークを発見する。料金は1つ3.9zlでユーロは×。支払いは後でよいとのことでバックパックとサブバックの2つを預ける(このときに化粧ポーチを入れたまま預けてしまって大失敗!この日は強烈な紫外線を浴びることになる)。携帯の充電がなくなってしまっていたのでターミナルのコンセントで充電をしながらミワにブタペスト戻りの時間の連絡などを入れる。ハンガリー〜ウィーンは船で移動する予定なので、その時間も調べておいてもらうことにした。ここからアウシュビッツまでは電車かバスで1時間半強。7時10分発のバスがあったのでバスで行くことにする。バスカウンターはユーロもカードも使えなかったので、今日一日で使うお金を予想して両替所に走る。両替をして再びカウンターに行くと、今度は運転手さんからチケットを買うようにとのこと。言われた通り地下の駐車場の13番に向かうと、薄暗い地下の端っこにOSWIECIMと書かれた札のあるバスが停車していた。運転手さんはまだいなくてバスも閉まっている。観光客のようには見えないおばあさんや、女性。何人かの人がベンチでバスが開くのを待っていた。

アウシュビッツという名前はナチスドイツが付けたドイツ名で、地元の人はオシフィエンチム(OSWIECIM ※Sの上に点、Cの下に点)と市の名前で呼ぶ。もともとポーランド人を収容する予定でここポーランドに建設された。人口密集地から離れたところにあり隔離、遮断が可能なこと、増設が可能なこと、そして鉄道の要衝であったことからオシフィエンチム市が選ばれた。オシフィエンチムにあるアウシュヴィッツ1号とそこから3km離れたアウシュビッツ2号ビルケナウが現在ミュージアムとして一般公開されている(ミュージアムという言い方に少し抵抗があるけれど日本語では博物館と訳されていた)。

2時間近く揺られて到着したオシフィエンチム市は大きな町で、住宅の他に大きな建物も見える。バスを降りて抜けた公園は緑が繁り鳥のさえずりが聞こえるとても豊かなところだった。ミュージアムへのエントランス付近には軍人の集まりのような団体や、観光客など多くの団体がいた。入場料のようなものはなく、他の観光客が手にしていたガイドマップの日本語のものと、英語で上映される映像のチケットを買う。説明ボードを抜けると収容所の敷地が広がっていた。収容所正門には「ARBEIT MACHT FRET(働けば自由になる)」という文字が並んでいる。Bが逆さなのが囚人のせめてもの抵抗だったのではないかと言われているものだ。設立された当初は14棟の1階建てと6棟の2階建ての計20棟があり、その後囚人たちの労働によって1階建物はすべて2階建てに、新たに8棟の増築がなされ、計28棟が並んでいる。建物の内部が展示室となっていて、観光客や社会科見学の団体とすれ違いながら、ガイドマップに書かれた推奨順路を参考に1棟ずつまわっていった。

アウシュビッツへ送られてきた人々のほとんどは東ヨーロッパに移住させられるだけだと信じていた。ナチスから存在しない土地や農場を購入した人もいるし、一番価値のある財産を持って収容所に到着していた。囚人たちの所持品であった、靴の山、眼鏡の山、ブラシ類の山、名前と住所が書かれたトランクの山、鍋の山、義足類の山などが展示されていた。解放直前に犯罪の跡を消す目的でこれらの倉庫に火が付けられたため、残ったものは一部だけだという。それでも何万という数で、積み上げられたその山の高さと生々しさを目の当たりにすると、体が硬直するのがわかった。ガス室に使われたヘチクロンBの空き缶の山も高く積まれていた。1500人が死に至るのに6〜7kg。2万kgのヘチクロンBが使われた(メーカーはわずか数年のうちに巨大な売り上げを記録したらしい)ということからもどれほどの規模の大量虐殺だったかということがわかる。ガス室で殺された人の金歯は抜かれ、指輪やピアスも回収し、髪の毛も切って集められた。大量の髪の毛と髪の毛から作ったというマットや布地の展示もあった。

一枚ずつ額に入った囚人写真が廊下の壁いっぱいに並んでいる棟。片側は男性。もう片側は女性。造花が飾られている額もあった。囚人登録すらされずに亡くなっていった多くの人たちもいる。収容人数をはるかに越える人たちを抱えた収容所での点呼は、時には19時間にもわたって続けられたという。第10ブロックと「死のブロック」と呼ばれた第11ブロックの間の中庭は、死の壁と言われる銃殺が行われた場所。たくさんの花が供えられていて社会科見学なのか次々と訪れる生徒らしき団体は花束を持って訪れて壁の前で静かに先生の説明を聞いていた。

収容所で毎日起こっていた悲惨な場面の一部がリアルに感じられた。同じ人間がする行為とはとうてい思えなくて、一人だったこともあるせいか端のベンチに腰をおろしたとき涙がどうしてもこぼれてきた。現在のように緑に囲まれて鳥のさえずりだって聞こえるそんな平和な日がやってくるなんて決して信じられなかっただろう。

第13以降のブロックはフランス、ハンガリー、オーストリアなど元囚人の国籍別の展示になっていて、亡くなった人の名前やユダヤ人の歴史など、国別の展示が見れるようになっていた。国ごとにこういった展示に参加するのはすごく重要なことだと思う。ドイツはアウシュビッツにどのように関わっているのかはわからなかった。

アウシュビッツから3kmほど離れたブジェジンカ村にあるアウシュビッツ2号ビルケナウへはミュージアムから1時間に1本程度の割合で出ているバスで移動する。到着するやいなや飛び込んでくる広大な敷地。そのあまりの広さにぞっとするしかなかった。300以上存在したというバラックのうち残っているのは数十棟だけで、ほとんどのバラックは煙突だけが残った状態で規則的にどこまでも並んでいるのが見える。53万坪もの敷地は線路を中心に歩けるようになっていて、端から端まで線路沿いを歩くだけでも汗をかく。線路にはところどころ花が置かれていた。積み下ろし場ではよく映像で見たような列車が到着する様子が重なる。バラックの中やガス室跡などを見て、最後に死の門の上に登った。150万人の人が虐殺されたと言われているアウシュビッツ。今はただその広さだけを実感している。ミュージアムまで戻り、またバスで帰ることにした。帰りのバスは寝なかった。

クラクフ駅に戻って夜行電車の出発までだいぶ時間があったので、ユーロで払えるかどうか確認してからお店に入る。フラキというポーランドのもモツ煮を頼む。日本のモツ煮込みの味噌でなくハーブ版といった感じで美味しい。ピエロギというロシアのピロシキに近いぎょうざというのは残念ながら今日はないとのこと。食事をしている間、オーナーのカルロスさんが私の向かいに座ってずっと話しかけてきた。アウシュビッツで買ったAdam Bujakという写真家の撮った写真集を見せたら、ポーランドの有名な写真家だと言っていた。カルロスさんの時代のことかもしれないけれど、ポーランドの学校ではアウシュビッツのことは教えないと言っていた。学校で教えたとしてそれが本当に正しいの?日本であなたが教わったことは真実?写真集をめくりながらカルロスさんが私に問いかける。アウシュビッツを訪れたかったのは、授業では教わらない部分を自分の力で感じ取りたかったからかもしれない。そしてクラクフはすごくすごくいい町なのに、なんでたった一日しかいないの?一体どんな用事があるというの?と何度も何度も聞かれた。教わった唯一のポーランド語でジンクイエ(ありがとう)と言ってお店を出る。

まだ大分時間があったので、早めに荷物を取りに行って明日の朝食用のパンやチョコレートを買って小銭を使い切り、構内の地下のベンチで列車を待つことにした。ベビーカーをひいたお腹の大きい物乞いの女性が行ったり来たりしていて手を出してきた。しばらくすると小さな女の子が細長いバルーンを振り回してはしゃぎながら、近寄ってきたり、話しかけてきたりしてきた。お母さんはどこにいるのだろう?と思ったらさっきの物乞いの女性の子どものようだ。近くの売店を行ったりきたりして店員さんと顔なじみのように話している。時々女性が「カロリーナ。」と呼びに来る。ケタケタと笑ったり、ウィンクしたり、踊ったり、ポーズを撮ったり、上目遣いしたり、幼いのに人を惹きつける方法をわかっている。遊んでいる最中に、構内で充電していた携帯の保護シールを勝手にはがしてしまったので怒ったら、反省するそぶりを見せたあと、にやりと笑った。カロリーなのが一枚上手だ。カロリーナがいじるので、携帯を急いでサブバックにしまう。

22時発のブタペスト行きの列車。行きと同じブースに分かれた車両だった。入り口すぐの一部屋目に女性が一人入っていったので、すかさず私も同じところに入った。女性二人なら安心だ。アウシュビッツで買った写真集を広げていたら、カルロスさんと同じようにAdam Bujakはとてもいい写真家だと反応していた。彼女はポーランドに住んでいるけれどアウシュビッツには行ったことないと言っていた。どう思った?に対する答えがお互い第二外国語の英語なのでよけいに難しい。部屋の電気が消されて深夜何時頃だっただろうか、彼女が降りていく際に、四つ葉のクローバーのラミネートしたものをくれた。「私が出て行ったら内側から鍵ができるから閉めた方がいいよ。」と教えてくれたので、鍵をかけて結局一人になって眠る。
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